道徳教育の指導法の課題と改善

道徳教育の指導法の課題と改善

 

 筑波大学


  吉田 武男  編著


A5判 152ページ 並製
定価 1380円+税

ISBN4-921102-13-5 C3037

目  次

はしがき

T.いま、日本の道徳教育はどうなっているか
U.道徳とは何か
V.明治期以降の道徳教育はどうだったのか
W.諸外国の道徳教育はどうなのか
X.世界の道徳教育論にはどのようなものがあるのか
Y.日本の道徳教育論にはどのようなものがあるのか
Z.日本の学校ではどのような道徳教育が行われるのか
[.日本の「道徳の時間」ではどのような指導法が行われるのか
\.新たな道徳教育の地平を求めよう
資 料

 教育勅語・教育基本法(旧)・学習指導要領(平成10年度版)・中央教育審議会答申(平成10年6月30日)
 教育課程審議会答申(平成10年7月29日)・教育基本法(新)・中央教育審議会答申(平成20年1月17日)
 学習指導要領(平成19年度版)・『心のノート』・国定修身教科書(第1期)

はしがき
  本書は、道徳教育の指導法について、教員に必要な基礎的知識を解説するとともに、心理主義的道徳教育からの脱却を図るという立場から、その課題を明確にしながら改善策を探ろうとするものである。
 精神疾患の病名とは別に、「心の闇」、「心の傷」、「心の居場所」、「無意識」、「自己肯定感」、「自己実現」、「自分への気づき」、「自分探し」、「引きこもり」など、「心の言葉」の概念が現代社会の中で溢れている。何しろ、楽しく感じられない、生活にハリがない、というような状態は、「心がカゼ」をひいたときの症状だ、と言われるぐらいである。したがって、書店では、心理学、より正確に言えば科学的な実験系心理学ではなく、さまざまな要素を混在させた臨床系心理学を下敷きにした啓発書が人間形成ないしは人間関係の手引書やマニュアル本として所狭しと並べられている。また、テレビのワイドショーでは、事件が起こるたびに、「心の専門家」と称する人たちが、判で押したように加害者・容疑者の心のあり方に原因を求め、そして一般の視聴者たちもそれを期待している。その意味では、現在の社会的風潮として、現実の社会問題が、個々人の心の問題として強く意識されているわけである。つまり、現代の文化的傾向として、個人還元論が社会・状況還元論よりも圧倒的に優勢なのである。それゆえ、生活や社会の問題をよりよい方向に導くために心理学の知識やスキルを無批判に受け入れようとする心理主義の傾向が蔓延してしまうのである。
 もちろん、そうした心理主義の傾向は、専門家たちの巧みな「マッチポンプ(火付け役と火消し役)」の宣伝活動によるものだけでなく、個人心理における解決を希求し受容しようとする人々との相互作用によって生じた現象である。その意味で、このような傾向は、物質主義的価値観のもとに社会運動や経済成長に邁進し終わった後遺症の日本社会を特徴づける、個人主義的なひとつの現代文化である、とも言えるのである。したがって、心理主義の傾向は、企業や学校や家庭のみならず、社会全体に浸透しつつある現在の文化状況なのである。
 しかし、そうであるからと言って、その傾向が現代の日本社会においてそのまま偏重された状態で放置されてよいものではないだろう。なぜなら、現実の社会問題がつねに個人の心の問題としてその解消策を求め続けられるならば、その人間は「感情労働者」として所与の社会への適応に向けたプログラムのループを歩まされる、というような対症療法的な解決策が提示されるだけで終わってしまうからである。そこでは、社会的現象の問題構造を見据えたうえで、共生・共存に根ざした現実社会の改善・改革を求める視点がまったく欠落されてしまうのである。その結果、たとえば日本の深刻な社会問題を解決するための同和教育を例にして説明すると、差別しないように他者への思いやりの心情が教えられるだけにとどまってしまい、歴史的社会的な差別の実態の構造、およびその解決に向けての現実的な活動に対する感覚・感性や思想性、さらには実践性が指導されなくなってしまうのである。つまり、社会的矛盾や不合理などの社会状況性を隠してしまい、ひいては子どもに非現実的な心の世界の中だけで対処する性向を育ててしまうという問題性が、心理主義偏重のもとでは同和教育の際に起こりえるのである。
 その問題性は、学校教育全体にとっても決して無縁なものではないであろう。つまり、心理主義偏重のもとでは、子どもの問題が個々人の心の問題にすり替わってしまい、学校教育の矛盾や不合理などの改善・改革を含めた抜本的な現実問題の解決が意識されにくいのである。たとえば、不登校の原因がその子どもにとってテストの成績であったとしたならば、心理主義偏重のもとでは、そのテストの存在を無条件に是認した上で、子どもの心のあり方が問われても、「そもそも抑圧的側面を有するテストは子どもにとって必要なのか」、「そのテストは子どもの学力を正しく適切に測定しているのか」、「そのテストで求められる知識は社会で生きていくうえで必要なのか」などというような問いは生じえないのである。したがって、学校教育において、個体還元論的な性格を強くもつ心理主義に過度に依存することは、地道な学校教育の改善の視点を見えなくしてしまう点で、警戒されてしかるべきであろう。
 ところが、現実の学校では、さまざまなところで心理主義の見方や方法が万能薬のように広がり、道徳教育の分野においても、例外ではありえない状況である。たとえば、「自己実現」という言葉の道徳化、文部科学省の編集・発行の『心のノート』などは、その典型的なものであろう。
 もちろん、心理学、特に臨床心理学の知見と方法は、節度のある使われ方が学校においてなされるならば、子どもの教育にとって大いに役立つツールとなり得るものである。したがって、その知見や方法は決して全面否定されるべきものではないが、道徳教育の分野における過剰依存は特に警戒されてしかるべきものである。なぜならば、道徳は、現実社会の生活の中で共生・共存していくための規範という側面を有するものであって、各個人の心の中というようなフィクションの世界で完結するものではないからである。つまり、道徳教育は、単に各個人の心の内面化で事足りるものではなく、現実の状況性の中ですべきことを正しく認識し、感じ、そして勇気をもって行動できるように子どもを導くことに他ならないからである。そのような道徳教育の心理主義化の危険性は、今からおよそ50年も前に、日本道徳教育学会や日本倫理学会の会長を務め、特設道徳の中心的な推進者の一人であった勝部真長も、次のように的確に指摘しているのである。
「・・・戦後の新教育においても、人は心理主義の考えの中に、その答えを探した。しかし心理学は、人間の心理の事実はかくかくであること、心の葛藤や仕組みを解きほぐして説明してくれるけれども、そこから直ちに『人生いかに生くべきか』や『われら何をなすべきか』は出てこない。いいかえれば、心理から直ちに倫理はでてこない。『かくある』という心理の事実から、直ちに『かくなすべし』という当為や命令はでてこない」と。  そこで、これからの新しい道徳教育は、心理主義の呪縛を超えて、フィクションの世界だけに子どもを没頭させるのではなく、現実の社会生活とつながったかたちで「生きる意味」を子どもに見出させるような働きかけでなければならないであろう。そのようでなければ、「いじめは、なぜやってはいけないのか」、「なぜ自殺はいけないのか」、「自分は何のために生きるのか」、「なぜ人に親切にしなければならないのか」などというような子どものいわば根源的な問いに対して、道徳教育はきちんとした解答を見出さないで、その場かぎりのごまかした解答しか提示し得ないであろう。
 したがって、そのような「生きる意味」を子どもに見出させるような新しい道徳教育、換言すれば「生きがい」の道徳教育とも言うべきものの構築が待たれるところである。本書のねらいは、その前段階として、まずこれまでの道徳教育およびその指導法の概要を確認したうえで、課題と改善点を指摘しながら、新しい道徳教育の構築に向けての展望を教職課程履修学生にできる限り提示しようとするものである。


編著者プロフィール

吉田 武男

(よしだ たけお)
 1954年奈良県生まれ。奈良市の小学校教員から筑波大学大学院に進学。
同大学院博士課程教育学研究科(教育学専攻)単位取得退学。
関西外国語大学,高知大学教育学部を経て,現在,筑波大学助教授(教育学系)。
専門は,道徳教育学,教育方法学。
主要著書に,『シュタイナー教育を学びたい人のために―シュタイナー教育研究入門―』,
『シュタイナー教育名言100選』などがある。

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